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今回はそれを整理した上で、もう少し踏み込んでみたいと思います。
そもそも何処からこの言葉が生まれてきたのか。
少なくとも大人達の世界からではないでしょう。
社会は弱肉強食の世界。
成功した者が莫大な富を掴み、そうでない者が地に落ちる。
残虐に聞こえますが、実際そうである事実は拭えません。
ただし、富を得た者が必ず幸せかと問われれば、そうではないとは言えます。
自分の家庭に不満を持つ人もいるでしょう。
回りの環境に不信感を抱かない訳にはいかない人もいるでしょう。
しかし、生に喜びを感じている間は、貴方はやはり「幸せ」なのです。
未来に「希望」を持ち続ける限りは「幸福」なのです。
何故「いじめ」を受けた子が自殺してしまうのか。
それは「生きる事」に希望を見出だせなくなったからです。
絶望に打ちひしがれ、大きな闇を抱えてしまい、自分の力ではどうにも出来なくなってしまったのです。
「彼ら」にとって「生きる事」自体が「苦痛」です。
他人に自分の気持ちを分かって欲しいという願望を持っている子もいるでしょうが、大半の子供はこう思っているはずです。
「早くこの苦しみから開放されたい」
その為ならば死さえうとわない。
そういう考えに至った者達が、今日世間で騒がれるようになった「いじめによる自殺を図る児童」です。
彼らにとって自分が死んだ後の事は差ほど重要ではないはずです。
何故なら、「命を絶つ」事イコール「言い表せない程辛い状況から逃げ出す手段」であるからです。
そこに、自分をいじめた子達への見せしめだとか、そういう感情があるというのは寧ろこちらの思い込みだと思います。
仕返しをしたいのならもっと直接的に何かをしているはずですし、その勇気や方法がないからこそそこまで追い詰められてしまったのですから。
彼らにとって「自殺」は自分を救う手段の一端でしかないはずなのです。
元来、生き物というのは「自ら生きよう」とする「本能」を保持しています。
これがあるからこそ、生命は繁殖し、成育し、そして次の世代へと命を繋いできたのです。
どんなに弱った獣でも、最後の最後まで懸命に生きようとします。
そこには「生」への執着以外の物は存在しません。
「生」を懸命に求める者にとって一番恐れる物は、やはり対である「死」です。
だから生物は皆「死」を本能的に恐れるのです。
生き物にとって「生」こそが全てなのですから。
人間は悲しい生き物です。
理性と知性を手に入れたが為に、「本能」を失ってしまったのです。
どんな時でも「本能」が「生」を保持する為に一番大事な性質です。
それを失ってしまった人間だからこそ、「死」を恐れる感情が揺らぎやすく、たやすく「死」を選べるようになってしまったのです。
その存在に嫌悪を抱き、目障りだから「殺」した。
理性を糧に生きるようになってしまった人間だからこそ、生きる為という目的とは全く異なる理由で命を奪ってしまうようになったのも悲しいものです。
「自殺」と「殺し」という行為は人間以外の生命が決して侵しはしないのです。
私は決して「自殺」を考えてる人間に対して促している訳でも、「殺し」を考えてる人間に対して促している訳でもありません。
ただ知って欲しいのです。
「いじめ」に耐えられなくなって命を絶ってしまった子供達がその手段を選んでしまう。
"それ程"追い詰められてしまったからこその選択なのだと。
そして、「命」は尊き物で"代わり"は存在しない、とても大切なものだということを。
決して奪ってはならないものだということを。
まずこの2つは似ているようですが実際は全然違うものだという事を最初に述べておきます。
批判というのは辞書的な意味では「批評し判定すること」ではありますが、「否定的内容を言う場合が多い」と記述されております。
つまり、一般的には皆様が思うように、その対象物に対しての不満や不快感を述べたものです。
人に対して酷い言い方だとか暴言に当たるようなもの。
また、自分の好みに合わない、嫌いという事も「批判」です。
前者は一般論として、後者は個人的な物ですが、正直言って他人が見ていい思いをするような物だということは言うまでもないかと思います。
何故なら、「批判」というのは一般的に「負」の要素だからです。
「負」の感情をぶつけられて良い思いをする人はまずいません。
それは「批判を受ける人」は勿論、それを見た人も同じです。
批判を言った側も決して良い感じはしないはずです。
最近は常に批判を言う人も少なくはないですが…
これに対して「批評」というのは「評する」の字が示すように評価をする意味です。
「批判」と違う所は+、つまり「正」の要素も同時に含んでいることが特徴です。
「どういった所」が良いのか、また気に入ったのか。
「どういう所」がいけない、また駄目なのか。
この2つの点について述べられるのが「批評」です。
しかし注目すべき最大の特徴として、「何故」良いのか、「何故」駄目なのかという「理由」に当たる物を述べる所にあります。
「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずる事」というのが批評の意味です。
つまり良い所を褒め、悪い所を指摘する、また何故良いのか何故悪いのかということを述べて初めて、「批評」と呼べるのです。
ただ褒めたり指摘したりするだけでは「批評」とは呼べないのです。
良い所を褒める、また言うのは「感想」を述べているに過ぎません。
そして、自分の気に入らない事を含め、悪い点しか指摘しない物は「批判」としか取れないのです。
「批判」に関しては、表現によっては言われた方が激しく傷つく場合もあります。
それは一般的に「中傷」と取られ、ネット上では「荒らし」の対象にもなります。
世に批評家という職業はあれど、批判家が存在しないのは、「批評」をするという行為が高度で難しい点にあるからです。
その物の何処がどう良いのか、何処がどう悪いのかを見極めるのはなかなか難しいものです。
また、「批評」はされた方に多大な影響を与える物であるので、それを下す者に価値が認められ、職業として成り立つのです。
以上の事を踏まえて、「批判」と「批評」には大きな違いがあるという事を今一度述べておきます。
「批評・アドバイスがあれば~」と記述されている場合、その方が一体何を求めているのかをしっかり見極める必要があります。
プロ・アマ関係なく「批評」を求められた場合はきちんと「良い点」「悪い点」「その理由」について触れるのがマナーです。
「感想」の場合は「此処が好き」「此処が良かった」など+の内容を述べるのが適当です。
そういう記述がなかったとしても、誰も「批判」≒「中傷」と取れる意見など求めてはいません。
もしそのサイト様(もしくは作品)が気に入らないのなら、個人的な理由である限りは黙って立ち去るのがマナーです。
何故なら、「批評」でもない負の言葉(=批判、中傷の類)を受けた人間は必ず傷を負うからです。
理由も分からずただ嫌いだなどと言われて良い思いをする人はいません。
むやみに人を傷つける行為はマナー違反であることは言うまでもありません。
もしその点についてどうにかして欲しいのなら、その「理由」と「直すべき点」を指摘することが先決です。
理由が分かれば、その方にとっては後に+に繋がる可能性があります。
ただ人によっては負、つまり-の言葉自体が地雷になりかねませんので、積極的に批評を求めていない所では感想以外は不適切でしょう。
「意見を述べること」が決して簡単なものではないのだということを、忘れないようにしましょう。